〔第2回目〕おだやかな心持ちに染め上げる永久不変の美しさが 今と未来の人々に安らぎをもたらす

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四天王寺

6世紀以降、色彩豊かな寺院が各地で建立
四天王寺はその先駆となる

創建当時は法隆寺も、現在の四天王寺のように塗装されていました。軸組を彩る赤色系の顔料には、酸化鉄を主原料としたベンガラが用いられています。赤鉄鉱を砕いて作られたベンガラは、約2万年前の北海道嶋木遺跡から出土した石皿からも確認されています。縄文時代に入ると、埋葬時に赤色顔料が撒かれ、それを貯蔵していた跡も見られるようになります。

赤鉄鉱


6世紀から日本で建てられるようになった仏教建築は、建造物の形と色を組織だって用いたことが画期的でした。仏教が有する一貫した世界観と同期して、それを直観させるものでもあったのです。以後、飛鳥時代、奈良時代と仏教を国内に広めるにあたって、建造物の建立に力が入れられた背景には、そのような形と色の効果がありました。日本に古くから存在した塗料も含めて新しい技術と共に再編成され、国家の主導によって職人が組織されることによって、鮮やかな色彩を持った仏教建築が地方にも建立されるようになりました。

四天王寺は、そうした流れの始まりに位置しています。第二次世界大戦後、1963年に完成した現在の建造物の復元設計を行ったのは、戦前期における朝鮮半島の建築研究の第一人者で、東京大学の教授を務めた藤島亥治郎氏でした。広くアジアの地理と歴史の理解の下、創建時に四天王寺が与えたであろうインパクトを形と色とで蘇らせようとしました。その成果を今日、目にすることができます。

たび重なる災いからの再建には
耐性に優れた塗料が求められていた

古代の姿を残していることの他に、四天王寺にはもう一つの大きな特徴があります。それは、生き続ける寺院である、ということです。今も栄える都市の中で人々の信仰を集め、境内を散歩する人、催し物に訪れる人を目にすることができます。歴史的な遺物でも、限定的な宗教施設でもなく、日本に定着した仏教の裾野を実感させる場所なのです。

四天王寺の創建時の建造物は、平安時代に火災で失われてしまいました。その後、1361年、1510年にも地震で倒壊したと伝えられていますが、そのたびに再建されました。1576年には織田信長による石山本願寺攻めのあおりを受けて焼失したものの豊臣秀吉によって再建され、1614年の大阪冬の陣でまたも焼失した際には、徳川幕府の援助によって再建されたのです。また、1813年に落雷で全焼した折には、6代目となる五重塔や金堂が大坂の町人が中心になって再建されました。しかし、その後も1934年の室戸台風や1945年の大阪大空襲で失われ、戦後の復興に至ったのです。古くからの都市に位置することで建造物が争いに巻き込まれやすくなり、他方で再建への貢献者があらわれやすくもなります。

このような持続力には、聖徳太子が創建に深く関わった寺院という四天王寺の由来が大きく働いています。仏教を広め、国のかたちをつくる働きをなした太子への信仰は、時代とともに深まっていきました。上皇などが参詣し、最澄、空海、親鸞といった諸宗の開祖も身を寄せました。世が移り変わるからこそ、四天王寺は立ち返るべき起点として、読み解かれていったのです。聖徳太子という一個人と向き合う場であることが、歴史的に貴重な寺院であることと、庶民の参詣の場であることを両立させているといえます。

江戸時代の境内図を見ると、建造物が赤い柱と白い壁の鮮やかな色彩で描かれていることが確認できます。中門から五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶという特徴的な「四天王寺式伽藍配置」が受け継がれているのも分かります。塗装には、美しさを構成するだけでなく、木を保護するという役割があります。聖徳太子ゆかりの形は守られ、何度も再建され、それを長持ちされるべく塗料が使われてきたのです。その折々の最新の学術と技術を活用することで、多くの人々が心を寄せる場所が継続されていったことがうかがえます。

四天王寺の歴史的価値は
最先端の塗装技術により次代に受け継がれる

戦後、四天王寺が鉄筋コンクリートによって再建されたのも、そうした流れにあります。都市にあるからこそ不燃化し、最新の学術を用いて復興された寺院なのです。それにしても、コンクリートの表面に色彩を施すというのは、木に彩色するのとはわけが違います。多くの人々が行き交う寺院であるだけに、何度も塗り直すようなものより耐久性が求められ、それでいながら、聖徳太子ゆかりの古代の形を正しく受け継ぐ色彩でなくてはなりません。

復興からもすでに半世紀が経ちます。古代への憧憬をあらわにした、学術的でありながらもロマンティックな復元設計自体が戦後という時代を語る、そんな歴史的な時期に来ています。その改修にあたっては、半世紀の間に進化した塗装技術が用いられました。美観の要点であることや構造体の保護する機能に加え、安全性や耐久性にさらなる配慮が加えられているのは人々が行き交う場所だからです。四天王寺が生き続ける寺院であることが、今も最先端の技術の場になっています。聖徳太子ゆかりの寺として受け継がれる心は、建造物の形に深く関連します。それを可能にしているのは、時代ごとの技術なのです。

四天王寺には日本ペイントの塗料が採用されています。ご興味のある方はぜひこちらをご覧ください。
https://www.nipponpaint.co.jp/


建築史家

倉方俊輔氏

大阪市立大学教授。日本近現代の建築史の研究と並行して、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」の実行委員会委員を務めるなど、建築の魅力的な価値を社会に発信する活動を展開している。著書に『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、『東京モダン建築さんぽ』(エクスナレッジ)、『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)、編著に『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、共著に『別冊太陽 日本の住宅一〇〇年』(平凡社)ほか。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)。

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